ゆるふわ刑法ブログ

かぽーんと刑法を考えるブログです。司法試験の過去問解説とか、基本書の紹介とかやってます。たまにリアル社会のことも考えます。論の展開が粗いのと読みにくいフォントは仕様。

イデオロギーと伝統

1 「ルビンの壺」の意味するところ

最近、諸事情から抽象度が高くなってきていて恐縮ですが、本日のテーマは「イデオロギー」です。

まずは、以下の作品をご覧ください。

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Wikipediaルビンの壺」より引用。

言うまでもなく、白い部分に注視すれば「壺/杯」を認識することができますが、黒い部分に注視すると「向き合った2人の人間の横顔」を認識することができます。

デンマークの心理学者がつくったとされます。これを「ルビンの壺ルビンの杯」と呼びます。仏哲学者メルロ=ポンティや仏精神科医(?)ラカンあたりが、この図を引用したりします。

このような教室事例的な図から明らかになることは、

  1. 人間は特定の事象に対して多角的な見方ができる
  2. その多角的な見方は一人の人間において同時に成立しえない

の2点です。

簡単に言えば、これがイデオロギーです。以前にもご紹介いたしましたが、人間は、前認識的な物理的刺激を起点として、無意識という形において、ある事象について線が引かれた状態でその片側のみを認識します。この心理状態を「言語」と呼び、「無意識は言語のように構造化されている」と表現します。最近の人工知能(AI)にはパーセプトロンなどの技術的概念・方法が用いられるわけですが、そこで最終的に行いたいことは、このような線引き(工学的には「回帰」と言えばいいんでしょうか)です。非常に大雑把にいえば、方法論的には、複雑な線引きをどうやってコンピュータに行わせるのかが大きな関心というか課題であるわけです。

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「ルビンの壺」はいわば教室事例ですから、かなりシンプルであり、誰にでも多角的な見方ができます。しかし、現実の事象は高度に複雑です。そんな簡単に多角的な見方が出てくるわけではありません。繰り返しますが、自分の考えていることや価値観と相反し、論理的に矛盾するような考え方・価値観を捉えることは不可能です。「困難」なのではなく「不可能」です。両立しません。一方を認識から除去した場合にのみ他方を認識することができます。これが第三者によって意図的になされる場合を「洗脳」と呼びます。自分の内心と矛盾することが自分の内心から出てくるはずがありません。

我々が上の図で多角的な見方ができるのは、上の図を自分の目で見ているからです。ところが、現実の世界では必ずしもそうではありません。自分が直接に触知できる事象など多くはないでしょう。このブログも含め、大半は言語を媒介とする情報でしかありません。コミュニケーションというのは言葉の交換なのであって、すなわち、自分以外の誰かが線を引いた「片側の世界」を音響イメージの連鎖に乗せて伝達しているにすぎないわけです。ですから、突き詰めると、イデオロギーは、共同体(他者との関係性)によって醸成されていくものであるのです。家族、地域、学校、職場などなど…

このように考えると、イデオロギーのめんどくささや、なぜ戦争が起こるのかといったことが、いくらか理解できるのではないでしょうか。とりあえず、何らかの世界観には、必ず反転した世界観があるとでも思っておいてください。最近は「選択」という建前の下、対立する相手方に対する無理解が増幅しつつあるような気がいたします…

2 「伝統」のカラクリ

私たちが何かを「伝統」と呼ぶとき、それは歴史的事実を指称するものと捉えられがちです。特に、伝統に対する批判的な文脈において、「いや、それを最初にはじめたのは日本じゃなくて外国だ」とか、「そんな歴史的事実はなかった」とか。もっとも、そもそも「伝統」は、事実概念ではなく規範的概念であって、上で説明した「イデオロギー」に含まれるものです。

「伝統」という言葉が用いられるとき、実際には、歴史的事実とは無関係に観念される物語・神話が念頭に置かれており、関係付けられる事実的慣行や歴史的起源の真偽は、そこまで重要視されません。ですが、それはその対象が伝統でないということにはなりません。「伝統」とは、外部的秩序とは区別された秩序を正当化するための「回帰点」(※さっきの工学的・数学的な「回帰」とは全然関係ない)と「そこから展開される価値体系」の総体をいい、それは連続する歴史的事実に対して回顧的に投影されますが、歴史的事実自体ではありません。

「伝統」が歴史的事実に投影(物象化)されるのは、それによって当該規範が「時間」と「事実」という重みを獲得することができるからです。簡単にいえば、連続性を装うことで規範的秩序として安定するわけです。流動的なルールは、およそルールとは呼べません(遊☆○○○とか)。この際、「回帰点」として再帰的に認識される対象事実には、反証可能性があってはなりません。なぜならば、ここが覆されると規範的秩序全体が動揺することになるからです。反証可能性がないとすると、その対象事実を証明することはできませんが、それを反証(つまり否定)することもできないのです。自然科学はその取扱い対象を反証可能性を有するものに限定することで安定を捨て、劇的な発展を遂げてきました。が、法学などではむしろ反証可能性の欠如が規範を安定化させるのです(たとえば、ろくに理由を書かない日本の最高裁判例とか、裁判官の情報開示をしたがらない最高裁とか、文書の電子化が遅れている最高裁とか。この点で、アメリカは非常に進んでます。前にか後にかわからないですけれど)

というかんじです。現代社会では伝統を肯定するか否定するかは個人の自由だと思われますが、伝統は、以上のようなイデオロギー性を伴った概念なのです。なお、最近の観光産業の展開の仕方は、伝統のイデオロギー性等を逆手にとって、街全体を一つの作品(思想又は感情の創作的表現)と見立てる手法であるとみることができます。「伝統のコンテンツ化」というべきでしょうか。あるいは、街という物理的実体に対するコンテンツの投影というべきでしょうか。個人的には、若干の疑問もないではないです。

次回は「『信仰』の商品化」とかをテーマにしようかな…

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