緋色の7年間

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民事裁判と刑事裁判の構造的な違い

こんにちは~

本日は、民事裁判と刑事裁判の「構造的な」違いについてお話ししようと思います。

はじめに、なぜ裁判構造の相違について注目するのかというと、民事裁判と刑事裁判で思考方法がまったく異なるにもかかわらず、ごちゃ混ぜに考えてしまって悩んでいる人がけっこう多いように思われるからです。しかし、この記事で細かい相違点を指摘するつもりはありませんし、そもそもそれは、私にはキャパオーバーです。ここでは、もっとず~っと大雑把に訴訟構造の違いを捉えていきたいと思います。ゆるふわでいいんです。

訴訟構造の違いを押さえることによる最大のメリットは、民事訴訟法と刑事訴訟法の理解が飛躍的に向上することです。各分野の関連性が見えるようになり、格段に内容を覚えやすくなります。「手続法の分野はイマイチわからん」ってかんじの方は意外と多いみたいで、ほかには、「刑事訴訟法の『捜査』は面白いけど『公判』は難しい。民訴もよくわからないや」といった方もいるみたいです。私は、混乱するのは当然だと思っています。なぜならば、手続法は「とある事情」から、非常に分かりにくくなっているからです。ですが、これをきれいに解決することができるかもしれません。その方法が、訴訟構造を非常に大雑把に捉えることなのです。

そもそも混乱が生じる原因は、手続法の根底にある考え方を一貫させられないからです。同じ手続法でも、民事訴訟法と刑事訴訟法とでは、実は、手続の理念自体に根本的な相違があるのです。これは、民事と刑事の違いではありません。手続形式を規律する理念の違いです。日本の民事訴訟と刑事訴訟は、似たような訴訟手続に異なる内容(実体法)が乗っかっているのではなく、まったく異なる訴訟手続に異なる内容が乗っかっているのです。さらに、手続そのものが異なる考え方に立脚しているだけでなく、その異なる考え方同士を学者が混ぜてしまったことが余計に混乱を大きくしています。そして、これらの混乱には、ものすごーーーく根深い理由があるのです。

◆なぜ混乱が生じるのか

ここで昔話をしなくてはなりません。でも大切なので聞いてください。時は、第二次世界大戦/アジア・太平洋戦争の事実上の終結後の昭和21年(1946年)、GHQの占領期にまで遡ります。

明治以来、ヨーロッパ大陸(特にドイツ法)の影響を受けてきた我が国の法制は、敗戦によって全面的に見直され、改正されることになりました。一般法で全面改正されたのは、憲法刑事訴訟法家族法です。周知の通り、この改正は、アメリカ法の影響を非常に強く受けており、簡単に言えば、この時に、法を規律する根本的な理念ごと英米法原理にすり替わったわけです。

ざっくり言えば、我が国の憲法および刑事訴訟法英米法 Common Law を原理とすることになったのに対して、民法(財産法)民事訴訟法、そして刑法などは、戦前の大陸法 Civil Law 原理の法制のままになったわけです。ここで、理念的には民事訴訟法と刑事訴訟法が決定的に分裂し、刑法と刑事訴訟法が分裂し、憲法行政法が分裂し、憲法と刑法が分裂するなどしたのです。

最近の憲法学では、ドイツ流の三段階審査論が台頭してきたみたいですが、そもそもなぜアメリカ法の影響を受けた芦部説(二重の基準論など)や佐藤説(事件性の要件など)が通説の地位にあったのかを押さえなくてはなりません。憲法学と行政法学では、「法律の留保」という基本的な考え方でさえ、最近までは賛否が真逆であったことも忘れてはいけませんし、刑法でも、大陸法由来の罪刑法定主義 Gesetzlichkeitsprinzip の憲法上の根拠が、なぜアメリカ法由来の適正手続条項 Substantive Due Process Clause に求められたのかも察してほしいところです(試験と関係ないじゃんとか思ったそこのあなた、現行司法試験の憲法の短答式で問われたことがあるくらい有名な論点ですからね?)。

最も重要なところは次です。以上のように、憲法刑事訴訟法も英米流に全面改正されることになったわけですが、それで刑事訴訟実務が変わったと思いますか?

答えは否です。

司法の法運用は、占領改革で変わりませんでした。戦後、大審院最高裁になったりするなど、外観はそれなりに変わっていますが、実務の実態はそれほど変わらなかったのです。というより、変われなかったと言った方が適切でしょう。なぜならば、英米法学は戦中、敵国の学問であって、研究は事実上、禁じられていたに等しいからです。英米法の研究の蓄積がない状態で、これまで大陸法で運用していた実務が、いきなり英米流の運用に変えられるわけがありません(英米法ベースの極東国際軍事裁判でも苦労したみたいです)。したがって、今日に至るまで、実務は、ずーーーーっと戦前の体制を引きずってきたわけです。

これで混乱しないわけがありません。

まとめましょう。

この2点を押さえてください。次に、「だから何なの?」という話をします。

大陸法英米法の訴訟構造の違い

民事訴訟法は大陸法で、刑事訴訟法英米法である。だから何なのでしょうか。ここから生じる最も大きな相違は、訴訟構造の在り方なのです。すなわち、民事訴訟法は大陸法系の職権主義刑事訴訟法英米法系の当事者主義を採用することになります。

ここで断っておきますが、一部の民事訴訟法学者は日本では「当事者主義」を採用していると言っていたりしますし、刑事訴訟法学者の多くの見解は「当事者主義」と言いながら職権主義類似の考え方をとっています。また、単純にどちらかの原理・原則を徹底させることができないのもたしかです。しかし、まずは本来はどうであるべきだったのかという点を押さえなくてはなりません。これだけだと意味が分からないと思うので、もう少し具体的に見てみましょう。

1.民事裁判の構造

まずは日本の民事裁判の大雑把な構造です。前述したように、日本の民事裁判では、原則として大陸法系の職権主義を採用しています。

職権主義」とは、簡単に言えば、裁判所あるいは裁判官を中心としたものの見方で、裁判所・裁判官と審判対象との関係性を重視する価値観のことです。職権主義を採用するドイツの裁判官の中には、「俺が法だ!」と言い切る人もいるらしいです。職権主義の下では、当事者の存在は論理必然的な要素ではありません。すべては裁判所が法秩序を形成できるかどうかの問題に収束します。裁判所の下した規範命題(結論命題)が「判例」だとされるのは、これが理由です。

そして、裁判所の公的な決定によって、紛争の蒸し返しを防止できる力(制度的効力)を、既判力と呼ぶのでした。既判力は、原則として訴訟物(旧訴訟物理論では、実体法上の権利または法律関係)に生じます民事訴訟法114条1項)。そうすると、民事裁判で重要な価値が置かれるのは、裁判所訴訟物を中心とした既判力が生じる範囲ということになります。

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そこで、日本の民事訴訟法を学ぶ上で注目すべき点は、必然的に次の2点ということになります。

  1. 裁判所
  2. 訴訟物

図をご覧いただければわかると思いますが、タテの関係が大切なのです。

民事訴訟法の領域は、すべてこのタテの関係に結びつけることができます。たとえば、管轄や自由心証主義、さらには処分権主義、弁論主義でさえも「裁判所」の問題ですし、当事者確定や訴訟担当、訴訟承継、口頭弁論終結後の承継人などの「紛争の主体たる地位」にかかる論点や既判力の客観的範囲の論点などは「訴訟物」の問題です。

弁論主義などが「裁判所」の問題だというのは意外に思われる方もいるかもしれませんが、弁論主義の3つのテーゼの主語は裁判所であって、当事者ではありません。弁論主義でさえ、裁判所を中心とした見方なのです。一般的には、これを権限分配論の問題と捉えて「裁判所と当事者の役割分担の原則」などと中立的に表現しますが、要するに、弁論主義は、裁判所の職権の一部移譲にほかなりません。弁論主義の根拠について、「私的自治の訴訟法的反映」という言い方をしなければならないのは、手続法に当事者を重視する原理を持たないからです(実体法中心主義)。「当事者意思の尊重」も似たようなもので、尊重する主語は、あくまでも裁判所です。当事者系の問題も、結局は既判力がどこまで生じるかの問題として捉えられます。要するに、日本の民事裁判は、当事者よりも裁判所に注目しているのです。当事者を重視するアメリカの判例には「Lochner v. New York」のように当事者の名前が付けられますが、日本の判例には「最高裁平成〇年〇月〇日判決」といったように裁判所の名前がつけられているのが象徴的です。

2.刑事裁判の構造 

戦前の日本の刑事裁判も、上に見たような民事裁判と同様の構造でした。

やはり、裁判所のトップダウンによる法秩序の形成に価値が置かれ、刑事裁判は何が真実なのかを決める場になっていました(実体的真実主義)。ですから、裁判所は社会的事実の総体である「公訴事実」について判断をしていたわけです。捜査機関は裁判所から命令を受けた機関で、実体的真実発見のために、拷問に近い手法を使っていた場合もあったと推測されます。捜査から起訴、公判審理までは一連の不可分の手続であり、公訴事実(というか一件記録)が、いわばベルトコンベアーの上に乗って各機関が流れ作業をしているイメージです。そして、一度公訴事実たる社会的事実を確定したら、これを再び審理することは許されません一事不再理。これが刑事裁判における職権主義です(むしろ、中世的な糾問主義に近いですが)

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しかし、戦後、このような実体的真実発見のためのトップダウンの考え方は否定されることになります。このような糾問主義・職権主義の否定が、弾劾主義憲法38条1項)当事者主義憲法37条)です。簡単に言えば、被告人の人権保障を強く打ち出すことで、真実を発見することに至上の価値を置く考え方(実体的真実主義)を否定したわけです。

代わって、当事者を中心とした市場原理が刑事裁判に組み込まれることになります(一種の思想の自由市場論)。つまり、審判対象をめぐって当事者同士で公正に討論をさせれば、自動的に真実が勝つという発想です(「見えざる手」による真理への到達)。本家アメリカのロースクールで行われているソクラテック・メソッドは、このような法廷における公正な闘い fair fight のシミュレーションの役割を担っています。そして、裁判所の審判対象は、社会的事実の総体としての「公訴事実」ではなく、検察官による弾劾の対象とされた「訴因(罪となるべき事実)となり、この訴因設定権は、原則として検察官のみが持つことになるのです(不告不理原則、起訴独占主義、訴追裁量主義)。検察官は、一度訴追した被告人を、もう一度同じ訴因で訴追することは禁止されます(二重危険の禁止。憲法39条)。これらが、弾劾主義と当事者主義の基本的な内容です。

このような弾劾主義・当事者主義に対して、わりと多くの日本人が「なぜ勝ったほうが正しいのか」、「事実と異なるならば誤りではないか」などの疑問を持つ傾向にあります。そして、そのような発想に至るのは、第三者(特に裁判所などの公権力)が当事者よりも「事実」ないし「真実」を正確に把握できることを前提とするからです。しかしながら、事実関係に最も近い当事者よりも、そこから遠く離れた第三者のほうが正確な情報を持っていると考えるのは「致命的な思い上がり fatal conceit」(F. A. ハイエクです。神でもなければ、当事者よりも事件のことを知っている人間などいるわけがありません。だからこそ情報を持つ当事者に主張をさせるのが合理的であり、そうするほかないのです。

このように考えると、刑事訴訟法とは、いわば紛争解決のための情報伝達の市場法なのです。刑訴法における「真相の解明」刑事訴訟法1条)とは、実体的真実の発見の積極的・消極的要請などではなく、本来はこのような市場原理による帰結の確認的な意味にとどまります。ともあれ、ここにおいて、日本の刑事裁判は、トップダウンの考え方からボトムアップの考え方への転換が生じたのです。

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(※上図では、「公訴事実」という言葉を用いているが、裁判所の審判対象は、検察官の設定した訴因である。今日、公訴事実という言葉は、起訴状における「見出し」としての意義しか持たない。)

そうすると、日本の刑事訴訟法(特に公判)を学ぶ上で注目すべき点は、次の2点ということになります。

  1. 検察官の立証
  2. 被告人の防御

民事訴訟法とは異なり、ヨコの関係です。

裁判所は、審判 judge の地位にとどまり、プレイヤーにはなれませんし、なってはいけません。民事裁判において裁判所がパターナリスティックな釈明義務を負っているのとは異なります。刑事裁判では(本当は民事裁判でも)、審判はボールを蹴ってはいけません。主語(プレイヤー)は、あくまでも当事者です。「疑わしきは被告人の利益に」の原則は、厳密に言えば日本では採用されていません。なぜならば、これは裁判所の視点だからです。日本で採用されているのは、無罪推定の原則であり、これはあくまでも「検察官が」犯罪をゼロから証明しなければならない政策的原理です。

弾劾主義の自己負罪拒否特権憲法38条1項。黙秘権とは異なる)を持つ被告人は、公判で「供述」(主張・立証を含む)に関する一切の法的義務を負わない憲法38条2項との対比。「強制」ではなく「強要」されない)ことになる結果、他方当事者である検察官がすべての法的義務を負うことになるのです(無罪の推定)。このような論理から考えると、現実に生じる問題の多くは、検察官の主張・立証が害されるような場面よりも、被告人の防御が害される場面となります。訴因変更関連の問題も、伝聞法則の問題も、結局は被告人の防御の観点で問題となっているわけです(ただし、伝聞法則は、情報伝達経路自体を問題とするものであり、第一次的には正確な情報を確保するための証拠法則です)

もっとも、前述したように、いまだに日本の実務・学説は戦前の体制をひきずっています。当事者主義は、検察官・被告人・裁判所の三者構造のことだというおよそ理解しがたい学説がまかり通っています(裁判所は紛争当事者ではなく第三者のはずです)。「弾劾的捜査観」などといったモデル論によって混乱が生じ、弾劾主義と当事者主義が混同され、「片面的当事者主義」という用語までできてしまっていますし、いまだに刑事裁判が「真実の発見」のためのものだと思っている学者・実務家もかなりいます。最近の取調べの可視化の議論にしても、真実発見のために可視化を捜査機関に義務づけるという観点から論じられていますが、本来は、被告人の防御のための権利(公正な討論の場を形成するための証拠保全・開示請求権)として構成されるべきでしょう(近時、公判前整理手続において、刑事訴訟法316条の15第1項7号により、取調べを録音・録画した記録媒体の開示を請求できるようになりました)

それでは~

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