緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

結果無価値論 VS 行為無価値論 入門(前編)

こんにちは~

みなさん、お元気ですか? 私は風邪で頭がフラフラです…(TT) 健康や体調の管理には十分に気を付けてくださいね!

◆2つの論点

「入門」とタイトルに書きましたが、今回は、違法論というへヴィなテーマです。前回は「『オレンジジュース』で考える違法性論」というへんてこな記事を書きましたが、今回はまじめに文献を引用して、なるべくわかりやすく説明したいと思います。もっとも、どれも基本書レベルですので、必ずしも高度な内容を扱うわけではありません。ほとんど「基本書解説」というかんじですが、このテーマの入門としてはいいかなと思います。というか私には、それ以上のことを説明できる能力はありません(きっぱり)。

とりあえず、佐伯先生による次の文章を読んでから内容に入りましょうか。

結果無価値論と行為無価値論の争いには、異なった2つの論点がからんでいることを理解する必要がある。第1は、法益以外の道徳それ自体を刑法で保護すべきか、という〔…〕問題である。第2は、違法判断は事前判断であるべきか、主観的違法要素をどこまで認めるべきか、といった違法性判断の構造をめぐる問題である。

(佐伯仁志『刑法総論の考え方・楽しみ方』(有斐閣、2013年)8頁)

なるほど、2つの論点があるということですね。書き出しておきましょう。

  1. 刑法の目的法益保護だけでなく道徳保護も含むか否か)
  2. 違法性判断の構造(主観的違法要素・事前判断等)

ということで、この2つの観点から見ていきましょう~ いざ! 泥沼!(※前回参照)

◆刑法の目的(法と道徳との関係)

法と道徳の分離あるいはリーガル・モラリズムの排斥という点に関しては、一応、既に学説では決着がついたとされる問題なのですが、予備校本の類では数十年前の議論のままです。予備校本はわかりやすいところがよいと思うのですが、少なくとも刑法に関しては、かなり内容が古いような気がします(「通説」で説明しているらしいですが、ざっと読んだところ、半分くらいはもはや少数説になってますね…時代ですかね…)。おそらく多くの学生は、違法性を「社会的相当性を逸脱した法益侵害の現実的危険性」や「社会倫理規範に違反した法益侵害又は危険の惹起」というように理解していると思います。しかし現在では、もはやこの考え方は通説ではありません。それでもなお採用したいのであれば引き止めはしませんが、通説でないことは押さえてください。ここでは、「前編」ということで、もっぱらこの「法と道徳の分離」のほうについてご説明しましょう。

まずは、結果無価値論者と行為無価値論者から、それぞれ主張を引用してみたいと思います。結果無価値論の立場からは、刑法の目的について次のように主張されます。

本書〔※山口先生の立場〕は、刑法の目的を、法的に保護に値する利益(法益)の保護とする立場に立っている。このような刑法の目的・任務の理解自体は、昭和40年代以降の、刑法の目的を社会倫理の維持に求めるような刑法の倫理的理解に対する批判の有力化に伴い、主流をなすに至ったと考えることができる〔…〕。この立場によれば、違法性の実質は「法益を侵害ないし危険にさらすこと」すなわち法益侵害・危険(の惹起)であることになる(結果無価値論)。

山口厚『問題探究 刑法総論』(有斐閣、1998年)46-47頁)

昭和40年代以降というと1965年以降ですね。米ソ冷戦期ですね! 今から50年近く前です(つまり予備校本のいう「通説で一貫した説明!」は、遅く見ても「40年前の通説で一貫した説明!」ということになります。多少の修正はあるとは思いますが)。ここから、だいぶ前の議論だということがわかります。文章を引用した『問題探究 刑法総論』自体も90年代のものです。なお、山口先生は、現在では微妙に立場を変えてきているような気がします(より目的刑論傾向が強まったような…)。

引用した文章から分かるように、刑法が法益の保護を目的とすることを理由として、結果無価値論が主張されています。違法判断は、法益侵害又はその危険の惹起という客観的な事態に対する評価に尽きるのだと考えるわけです(物的違法論)。いわゆる「客観は違法に、主観は責任に」という考え方を徹底させる立場です。第2の論点を先取りすることにもなりますが、結果無価値論は、これに加えて違法判断の明確性を主張の根拠にします。まとめると、結果無価値論の主張根拠は次のようになります(これについては、井田・理論構造2-4頁も参照)

  1. 法益保護主義
  2. 違法判断の明確性

これに対して、行為無価値論の立場は、次のように反論します。

結果無価値論を支えるのは、刑法と道徳は区別されるべきであり、刑法的判断から倫理的考慮は排除されるべきだとする思想である。〔…〕それじたいは正当な考え方であると思われる。ところが、論者は、この正当な考え方から、国民に対する行動基準の提示という機能を違法判断に求めてはならない、それは刑法と道徳の混交をもたらすという主張を導くのである。これはまさに驚くべき主張であろう。刑法は、何よりも国民に対し、行動の時点において適法と違法の限界を知らせることを存在理由とする。

(井田良『刑法総論の理論構造』(成文堂、2005年)3-4頁)

このように、現在の行為無価値論の立場は、法益保護の考え方自体について争うようなことはありません。行為無価値論からも、法と道徳の区別をすることができるというのです。

この場合、法益の保護はあくまでも目的であり、ゆえに、法益の保護を目的とした行為規範の設定という手段を考えることは可能であるとするわけです。したがって、現在の行為無価値論は、社会倫理規範の違反行為に代わって、法益の保護を目的とした行為規範の違反行為を違法評価の対象に据えます(人的違法論)。この立場は、罪刑法定主義の要請を根拠として、行為の時点で適法・違法を明確に区別しうる行為規範が提示されなければならないことを主張します。これによって、はじめて犯罪の一般予防(抑止)が達成されると考えるのです。

まとめると、現在の行為無価値論の主張根拠は、次の通りです。

  1. 法益保護主義
  2. 罪刑法定主義(規範による一般予防)

行為無価値論側からこのような主張があったことで、結果無価値論からも次のように理解されるようになりました。

しかし、行為無価値論と道徳保護との間に必然的な結びつきがあるわけではない。刑法の任務を法益保護に求めながら、行為無価値を考慮する立場もあり得るし、現在では、そのような立場が、ドイツでもわが国でも一般的である。現在の結果無価値論と行為無価値論の争いは、刑法の任務が法益保護にあることを共通の前提としながら、これを達成するために、刑罰をどのようにどこまで用いるべきかをめぐる争いなのである。

(佐伯・前掲8-9頁)

こうして、主戦場は違法性判断の構造という舞台に移っていくことになります。

ちなみに、次回説明予定の「違法性判断の構造」のところを若干先取りすることになってしまいますが、行動基準の事前告知については、論争が続きます。結果無価値論は、行動基準の提示という考え方に対して、次のような批判をします。

たしかに、刑法規範は国民に対する行為規範としての機能をもつことが望ましいとはいえよう。しかし、〔…〕行為規範も当該行為が構成要件に該当し違法・有責であるかという可罰性の判断によって示されるのであり、ひとり違法性の判断のみが告知機能を有するわけではない。しかも、この行為規範の内容は、裁判所による刑罰法規の解釈という作業(裁判規範の形成)を経てはじめて具体化され確定されるものである。〔…〕行為無価値論といえども、行為の時点で適法・違法の区別、行動の準則を具体的な行為者に与えることは不可能であろう。

西田典之『刑法総論』(弘文堂、第2版、2010年)130-131頁)

つまり、①条文に書いてある責任要素も告知の内容となること、②裁判所による事後的な解釈によってしか行為規範の内容が明確にならないこと、の2点が批判のポイントです。これらは、事後判断や裁判規範性に重きを置いた考え方によるものと思われます。これに対して、行為無価値論は次のような反論をします。

たしかに、刑罰法規による違法行為の事前告知が現実にどれだけの一般予防効果を発揮しうるものかは明らかではない。しかし、一般の人々はどうせ条文を読むことなどしないから、また、裁判所による解釈を通じて事後的に処罰の範囲は明らかになるのだから、法律の規定による行動準則の提示など無意味である、というのなら、罪刑法定主義の原則そのものが不要とされることにもなりかねない。立法による違法行為の事前告知は可能であり、それは〔…〕一般市民にとっての行動準則として現実に重要な社会的機能を営んでいる。また、判例による解釈を通じて具体化された違法性判断が一般の人々にとり行動のためのガイドラインとして機能することもあり、むしろ罪刑法定主義の実質的要請はそれによりはじめて充たされるというべきである。他方において、行為準則ないし行動基準は違法性判断の問題であり、責任判断はこれとは無関係である(たとえば、責任能力に関する39条1項の規定は、人々に対する行動基準を設定するものではない)。

(井田良『講義刑法学・総論』(有斐閣、補訂版、2011年)84-85頁)

先ほどの①については、条文に書いてあっても、責任能力などは行為規範の内容とならないことを理由に反論していることがわかります。②についても、罪刑法定主義の観点から、かなり丁寧に反論している印象を受けます。このようにみると、原則に基づいた説得力のある反論と考えられますので、行為無価値論側の反論は成功しているように思えます。それなので、結果無価値論は次のように修正してきます。

結果無価値論においても、行為の事前の危険性(実行行為性)は問題とされているし、違法性阻却の判断においても、違法性阻却事由の要件が事前判断として判断される場合はある。〔…〕その意味では、結果無価値論からも、刑法の行為規範性を否定する必要はないのであって、そこで問題とされているのが、あくまで法益侵害の危険性であるならば、結果無価値論の枠内で説明することが可能である。

(佐伯・前掲105頁)

うまい反論のかわし方です。結果無価値論の立場からも行為規範(行動基準の事前告知)は否定されないとすることで、行為無価値論の理論的根拠を薄めることに成功しています。こうなると、結果無価値論行為無価値論の差は、どんどんなくなっていくことがわかります。

なかなか白熱してますね! てか、みなさん完全に特定の先生に対して批判してますよね! わかりやすいので批判が文献のどの部分に向けられているのかを特定するのは容易でしたよ!(文献を追うのは疲れましたが…) そもそも結果無価値論者が批判する行為無価値論者は、ほぼ井田先生に限られていますので、実は論争を追うこと自体は難しくありません。なお、最近では、高橋先生が第三極的なポジションにいるので、なかなか論争が複雑化してきています。今回は、ほとんど関東圏の論争の紹介でしたが、関西圏も含めるとさらにややこしくなります。ところで、関東圏と関西圏で考え方がかなり異なるのはなぜなのでしょうか…? 私はいまだに関西圏の考え方の大枠を把握できていません…(本当に申し訳ないです)

So what? ― モラリズムを排斥する意味

伊藤栄樹は、1985年の検事総長就任時のインタビューで、次のように語ったとされています。

特捜検察の使命は巨悪退治です。私たちが『巨悪』と闘う武器は法律です。検察官は「遠山の金さん」のような素朴な正義感をもち続けなければなりません。

伊藤栄樹 - Wikipedia より引用)

出生年が1925年であることからわかりますが、伊藤元検事総長の学生時代は戦中に位置します。伊藤元総長は海軍出身で、戦後の第一期司法修習生です。団藤先生がそうであったように、上の発言には戦前・戦中の倫理的色彩が非常に鮮明に残っていることがわかります。彼らの時代は日本の激動期で、実務としても明治立憲体制から現行憲法体制への過渡期でした。このような時代背景からすれば、「巨悪退治」や「遠山の金さん」という発想があったとしても特に違和感はありません。

問題は、今はそういう時代ではなくなったということなのです。現代社会は、グローバリゼーションが進行し、世界規模でマーケットが統合され、インターネットで国際的なコミュニケーションが展開される社会です。このような社会においては価値観が多様化しますので、何が「悪」なのかは誰にもわかりません。ですから、保護されるべき価値は、国会で決めるしかないのです。それゆえ、国会によって定められた法律の保護する生活利益や価値、すなわち、保護法益に対して、侵害が認められる場合にはその人は処罰されることになりますが、これは「悪いことをしたから処罰される」のとは意味合いが異なります。端的に言って、刑法は、もはや悪い行いを処罰する法ではないということです。これこそが、リーガル・モラリズムの排斥であり、法と道徳の分離であり、刑法がもっぱら法益の保護を目的とすることの意味です。外務省機密漏えい事件(最決昭和53年5月31日刑集32巻3号457頁)が問題なのは、根本的にはこれが理由なのです。

それにもかかわらず、受験の影響なのかどうかわかりませんが、多くの学生がリーガル・モラリズムに盲目的に迎合してしまっています。たしかに、医事法の分野では、生命倫理との関係が問題になり、あえて刑法(というか法全般)に倫理的色彩を残す先生もいらっしゃいますが(→「医事法の世界へようこそ!」を参照)、学生がそこまで考えて自分の立場を決めているようにはとても思えません。どのような立場を採用するにしても、少なくとも明確な時代認識の上で採用してほしいものです。

それではまた~

 

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