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ゆるふわ刑法ブログ

かぽーんと刑法を考えるブログです。司法試験の過去問解説とか、基本書の紹介とかやってます。たまにリアル社会のことも考えます。論の展開が粗いのと読みにくいフォントは仕様。

「規範」の正体と言語論革命

刑法

こんにちは~

違法論の対立の「後編」に入る前に、「規範」についてもう少し理解を深めておきましょう。

「規範」は曖昧で、つかみどころがないと思う方は多いと思います。私もそう思いますし、実際のところ、研究者の間ではいまだに規範概念について共通の了解がありません。人によっては、H.L.A. ハートの規範論などを引用しますが、私個人の印象ではいまいちなかんじです。このような状況について、ある学者は次のように述べています。

規範論の居心地の悪さの原因の一端は、「規範」という概念を初めとして、用いられている様々な概念の意義(ないし定義)が、議論している関係者の間においてさえも、往々にして一致していない、定かではない、相互に理解が困難であることにあろう。「規範」とは何か、という本質論的な議論が紛れ込んでいることのあることも事態を複雑にしている。

(伊東研祐「規範論理と刑法理論学―高橋則夫著『規範論と刑法解釈論』(成文堂、2007年)を読んで―」『理論刑法学の探求②』(成文堂、2009年)169頁)

ということで、規範論は、この記事でも、もちろん説明できる内容ではありません。私にそんな能力はありません。

しかし、刑法学の外の世界には、既にかなり固まった議論があるのです。実は、「規範」の正体については、20世紀初頭に答えが出されているものと思われるのです。これを刑法学に取り入れるかどうかはともかくとして、少なくとも参考くらいにはなるでしょう。この記事では、刑法の外の世界の規範概念を、実際に見てみることにします。

◆20世紀言語論革命

1906年から1911年にかけて、フランスで、ある言語学の講義が行われていました。

ある人物によって行われたその講義は、その人物の死後、弟子たちによってまとめられ、本として出版されました。当時、その人物はほとんど無名だったのですが、フランスの人類学者がその理論を継承し、アメリカなどで大々的に展開したことによって、世界的なムーブメントに発展するに至ります。これは、第二次世界大戦後のことでした。

その世界的なムーブメントは日本にもやってきました。日本では、70年代にフランスからその理論が輸入され、一時期は学生の間でさえブームになったのですが、その後は諸々の事情で衰退することになります。というと、もう終わった議論のように聞こえるかもしれませんが、終わった議論というよりも、当たり前になって誰も気にしなくなった議論と言ったほうがいいでしょう。現学生の方であれば、中学や高校の国語の教科書で、これを学んだことがあるはずです。(国語の先生も含めて)理解できていたかどうかは別として、必ず学んでいます。センター試験(旧共通一次試験)の現代文でも、法科大学院全国統一適性試験第3部長文問題でも、頻繁に出題されるテーマです。

もっとも、多くの人は、文章の内容など気にも留めず、ただ試験問題として形式的に解いているだけですから、内容はほとんど頭に残っていないかもしれません(本末転倒な気がしますよね)。ですから、その内容を学んでいることになっているにもかかわらず、自らの専門分野で応用ができないのです。

それでは、以下の文章を読んでみてください。

フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure 1857-1913)を皆さんは知っているだろうか。20世紀以降の現代言語学を生み出し、記号学を提唱した人物。過去一世紀の社会や文化の知の地平はこの人の仕事を出発点に切り拓かれたといっても過言ではなく、<ソシュール>は、構造主義・ポスト構造主義カルチュラル・スタディーズや様々な現代思想の典拠となってきたし、現代の言語学にしても、<ソシュール>を重要な部分で源泉としている。

石田英敬「新しい世紀のソシュール」フェルディナン・ド・ソシュールソシュール 一般言語学講義 コンスタンタンのノート』(東京大学出版会、2007年)179頁)

具体的には、文化人類学、消費社会論、歴史学、文学、ファッション・モード、精神分析に至るまで、すさまじい影響力をもった人物が、言語学ソシュールです。あまりに強力なので、ときにその理論は濫用され、様々な誤解を招き、現在では没落傾向にあるとされていますが、少なくとも「本体」の理論はほとんど無傷です。法学の世界でも、デリダ脱構築フェミニスト法学者(長い肩書ですね)のドゥルシラ・コーネルなどによって取り入れられてきているようです。このような世界的なパラダイムシフトを、実体論から関係論への移行という言葉で表現されることもあります(センター試験頻出!)。この言語理論を、構造言語学とか記号学記号論と呼んだりします。

日本では学界がタコツボ化しておりまして、分野横断的な視点が非常に弱いように思われます。このようなことも相まって、ほとんどの人たちは、少なくとも高校や大学入試で何度も考える内容であるにもかかわらず、自らの専門分野に閉じこもってしまい、外の考え方を見ようとしなくなるのです。ここでぜひ、過去を振り返って思い出してみてください。どういう話だったでしょうか?

共時的記号コードとしての刑法規範

規範論の理解に必要な限度で、構造言語学を考え方を押さえておきましょう。

言葉は、「音響イメージ」と「概念(意味)」の恣意的な結合によって成立しています。たとえば、「木」という音のイメージは、心の中でそれをイメージした瞬間に同時に、「緑色の葉っぱが付いた棒のようなもの」(木の概念)が、もやもやとイメージされます。これを表したのが下の図です。

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シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia より引用)

「音響イメージ」が下の部分、「概念」が上の部分です。専門的には、これをそれぞれ、「シニフィアン」、「シニフィエ」と呼びます。簡単に言えば、言葉は「音」と「意味」のそれぞれのイメージが結合して成立しているものなのです。この「音」と「意味」の結合は恣意的です。これを言語の恣意性とか記号の恣意性と呼んだりもしますが、これは私たちが「音」と「意味」の結合を自由に操作できるということを意味しません。「音」と「意味」の結びつきには何の関係もないというだけのことです。

繰り返しますが、ここで言っている「音」も「意味」も、心の中のイメージです。現実に発生する空気振動(音波)とは区別されます(※まじめな話になりますが、世の中には、精神の障害で区別できない人たちがいます)。言葉は、もっぱら心の中の現象として把握されます。ここで、注意しておかなければならないことがあるのですが、言葉は「音」と「意味」が事後的に接着して構成されているのではないということです。言葉と音と意味は同時存在します。後の時代になって、「音」と「意味」が縫合されず、バラバラに砕け散って物象化して現前する精神現象(DSM-Ⅳにおける解体型統合失調症にあたる)というのも考えられてきますが、この記事では扱いません(この点については、ジャック・ラカン『エクリⅠ』(弘文堂、1972年)などを参照。ラカン派の病態カテゴリーでは「パラノイア」ないし「スキゾフレニア」と呼ばれる)

言葉の「意味」に実体はありません。言葉は他の言葉との関係によって規律されます。とりわけ、「音」と「音」の差異によって「意味」が決定されるのです。これは非常に興味深い問題ですが、ここでは深入りしません。とりあえず、「音」の連鎖が、「音」の「意味」を決定するということだけ押さえてください。本来は、さらに、言語における通時態(時間的推移による変遷)と共時態(ある一時点における状態)の区別を説明すべきなのですが、規範論は、共時態しか念頭に置いていないので、この記事ではさしあたり通時態については無視することにします。

だから何なのかという話なのですが、規範論は、一種の言語的コミュニケーション(情報提供)を手段とする一般予防論ですので、構造言語学の射程範囲内だということなのです。法や文化、慣習、言語などを総じて共時的記号コードと呼びますが、共時的記号コードは構造言語学の分析対象です。 構造言語学の射程は非常に広く、あらゆる人文・社会科学に応用できます。理論刑法学も例外ではありません。

この意味では、行為無価値論者が、言語的コミュニケーションという点を強調することは適切です。行為無価値論に立つ井田先生は、次のように表現しています。

刑法の本質的機能は、このような形での(言語を手段とする)人の行為意思への働きかけによる行為統制である。罪刑法定主義は、このような刑法の本質的機能と密接に結びついた刑法の基本原則である。〔強調引用者〕

(井田良『講義刑法学・総論』(有斐閣、補訂版、2011年)6頁)

なお、同書で、頻繁に「規範」という用語とともに「情報」というワードが登場するのは、言語と情報には密接な結びつきがあるからです。結果無価値論に立つ書籍では、「規範」や「言語」、「情報」という言葉があまり出てきませんが、それは、これらが客観的に観察できるものではないからです。繰り返しますが、「音響イメージ」と「意味」は、物理的な次元に存在せず、もっぱら心理的な現象です。ですから、結果無価値論ではこれらを考慮しにくいのです。

言語は、人間と他の生物をわけるものです。これも一般教養的ですが、現在においては、他の生物との比較における人間の特徴は、二足歩行でも、道具の使用でもありません。人間と他の動物を分けるのは、あることに全く別の意味を与えるという象徴機能、すなわち、言語能力(ブローカ野やウェルニッケ野などの言語を司る脳の領域)なのです。この意味では、結果無価値論は、人間と他の動物を区別できないわけです(物的違法論)。だからこそ「ゴリラが住居に侵入したときでも、等しくその意味における結果無価値は肯定される」(井田・前掲84頁)と批判されるわけです。

今回は、だいぶ刑法の外の話を取り込みました。ちょっと説明できているのか甚だ心もとないところではありますが、ゆるふわなので許してください(逃げの姿勢)。どこまで取り入れるべきなのかは、やはり、ひとりひとりが考えていってくださいな。

なお、大陸法系制定法システムにおける人々の規範的統制が非常に難しいことは以前に説明しました(→「あなたの組織がうまく回らない理由」を参照)

それではまた~

 

▼本文で引用した文献はこちら

ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート

ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート

 

▼かなり発展的ですが、ラカンの著書はこちら(普通の人には読めないので、やめておいたほうがいいかもしれませんが)

エクリ 1

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