緋色の7年間

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「危険の現実化」の落とし穴

こんにちは~

今回は、因果関係論のうち「危険の現実化」に焦点を当ててみたいと思います。

この記事を書いた当時、まさかここまで読まれるとは思いもしませんでした。それだけ学生が「危険の現実化」の理解に苦労しているということなのだろうと思います。

この記事は、もともと読者が危険の現実化説をある程度知っているということを前提にして書いたものなので、そもそも「危険の現実化」について一切知らないという方が読んでも理解不能だったと思います。司法試験の採点実感では、因果関係論の具体的な適用方法について問題があるとしばしば指摘されています(詳しくは、「採点実感まとめ」の因果関係の項目をご参照ください)。これは、要するに、それなりの数の受験生が「危険の現実化」の理解がうまくできていないということ意味しています。ということは、そもそも「危険の現実化」を知っているという前提で書いていたこの記事には、重大な欠陥があったことになります。

そこで、そのような方のために、「危険の現実化」の基本について大幅に捕捉させてください。これによって、もう少し理解がしやすくなるかと思います。

◆「危険の現実化」とは

現在の判例は、因果関係の有無について、「行為の危険性が結果へと現実化したか」という判断枠組みを採用していると考えられています。その具体的な内容は、「行為と結果との事実的なつながりの強さ」を判断するというものです。以上です。たったそれだけのことです。判例の立場には、判断基底論も類型論も出てきません。

実際の事案では、実行行為の危険性の内容を画定した後、それが結果に現実化したと言えるかどうかを事実関係をもとに判断するだけです。たとえば、「自動車のトランクは人が入ることを想定して設計されておらず、そこに人を押し込めば、追突事故等からその人を保護できずに死亡させる危険性があった」という逮捕監禁致死罪の実行行為の具体的な危険性を認定して、次に「それにもかかわらず被害者をトランクに押し込んで、実際にほかの自動車から追突され、被害者を死亡させた」という具体的な結果をもとに、「行為の危険が結果へと現実化した」と評価すればおわりです。

たったそれだけのことを、なぜそこまで難しく考えてしまうのでしょうか?

それは、因果関係論の学説が多様だからです。それぞれの学者の立つ理論的な枠組みから判例を理解しようとするため、先生方の言っていることが一致しないのです。多くの学説は、純粋に「危険の現実化説」を主張しておらず、従来から主張されている相当因果関係説やドイツの客観的帰属の理論の枠組みを引き継ぎながら「危険の現実化」を説明しています。これは、山口先生でも前田先生でも井田先生でも同じです。とりわけ井田先生は、折衷的相当因果関係説でありながら「危険の現実化」を基準にしていますから、相当因果関係説と危険の現実化説を対立するものと思い込んでいる人には衝撃的かもしれません。

学説が相当因果関係説の枠組みから説明しようとするのは、相当因果関係説で問題とされている部分がいまだに存在するからです。それが判断基底論、つまり実行行為の危険性を判断するにあたってどこまでの事情を考慮すべきなのかという基礎事情の範囲の問題です。判例は、結果的加重犯について加重結果に対する過失を不要としていますから、責任段階で処罰範囲を絞る操作はできません。そうすると、因果関係論で適切な処罰範囲に絞る必要が出てくることになるのです。このような考え方に対して、行為時の事情と行為後の事情を区別できないという批判がありますが、判断基底論は実行行為の危険性に含めるべき事情の範囲を問題としているのですから、仮にまったく限定できないとすれば条件説と一致することになります。これが学説の問題意識なのですが、裏を返せば、判断基底論を曖昧にしていると思われる判例に乗っかれば、因果関係論はものすごく簡単になるのです。

それでは、山口先生の主張している「誘発」などの類型論や、前田先生の三考慮要素、井田先生の言っている死因の同一性の基準とはいったい何なのでしょうか?

結論から申し上げますと、これらは「危険の現実化」の理解にとって必須のものではありません。判断の内容を分かりやすく説明しているだけで、言っていることは実はいずれの見解も同じです。「危険の現実化」を言い換えているだけなので、説明しなくてもわかる人には不要のものなのです。見解によって細かい違いが出てこないわけではありませんが、少なくとも司法試験の問題や現実の事案において、具体的な帰結に違いが出てくるということはまずありません。「起案でこの表現が使えそう」という程度に考えるのがよいと思います。

以上で、基本的な説明は終わりです。理論的な関心があるのならばともかく、因果関係論には深入りしないことが賢明です。以下に述べる内容は、中途半端に理論に踏み込んでしまった人のやりがちなミスと、それを避けるための対策についてです。今振り返ると、かなり「はずした」内容になっていますが…

結局、下の文章で何が言いたかったのかというと、「危険の現実化」や「誘発」というマジックワードに振り回されないようにしてくださいということです。具体的な事案に対して、想像力を伴った分析を忘れないようにしてください。

◆境界事例としての高速道路侵入事件

高速道路侵入事件(最決平成15年7月16日刑集57巻7号950頁)をご存知ですか? 「最近は相当因果関係説じゃなくて危険の現実化説なんでしょ?」、「高速道路侵入事件では『誘発』の基準で『危険の現実化』を使えばいいんでしょ?」と思う人もいるかもしれません。しかし、どちらも誤っています。

なぜ誤っているのか、その理由を列挙してみましょう。①相当因果関係説と危険の現実化説は並列に置かれるものではない、②「誘発」は基準ではなく類型である、③「危険の現実化」はそれだけではマジックワードである、④高速道路侵入事件は境界事例であり、安易に因果関係を肯定することはできない、などです。

答案では①~③がよくあるミスなのですが(これらについては別途「危険の現実化のあてはめ」を参照)、最大の問題は④です。ここに無頓着だと、法律家としてのセンスが疑われます。本事案は、第1審で因果関係が否定されていることに注意を払わなければなりません。おそらく、法学部出身でない人に事案だけ見せて傷害致死罪の因果関係が認められるかどうかを聞けば、9割は認められないと答えると思われます(法学部出身でない人たちにこういうことをよく聞くのですが、今のところ、この事例で因果関係を肯定した人は50人中0人です。みなさんも、ぜひやってみてください)。高速道路侵入事件は、自分の感覚が麻痺しているかどうかを試すよい事例なので、ここで一度、深く考えてみましょう。「危険の現実化」という言葉だけを知っていても意味はありません。

問題は、ここでいう「実行行為の危険性が現実化した」といえるかどうかをどのようにして判断するかである。

実務的には、実行行為及びこれと構成要件的結果に至る経過を証拠に基づいて確定しており、その際、行為と結果の間の結びつきだけでなく、具体的な結合態様、すなわち、医学的な見地からの構成要件的結果に至るプロセスが解明され、その結びつきの「太さ」まで認定しているのが実情である。

小坂敏幸「因果関係 (1)」『刑事事実認定重要判決50選(上)』(立花書房、補訂版、2007年)37頁

ということなのです。

もっとも、この記事では、「死因」などの判例の具体的な考慮要素は検討しません判例の具体的な考慮要素については「因果関係と客観的帰属2」を参照)。この記事では、その前段階として、事実関係のイメージトレーニングを行ってみたいと思います。「危険の現実化」などのマジックワードに飛びついてしまうのは、判例の具体的な事実関係をイメージできていないからだと思われます。判例集は事実関係を絵で描いてくれるわけではないので、イメージしにくいとは思います。…ということで、この記事では絵を描きます!

◆イメージトレーニングの前に

因果関係の問題について、いくつか注意点を書いておきます。

いうまでもなく、高速道路侵入事件の最高裁決定は事例判断です(「事例判断」かどうかの判断方法については「『判例』の読み方 入門編」を参照)。因果関係の判例は、すべて事例判断です。一般的な基準を提示した判例はひとつもありません。なぜならば、事実としての因果経過は事例ごとに全く異なるからです。一概に、どこからどこまでの範囲ならば、因果関係が認められるとは言えません。

また、問題をややこしくするのが、学説における刑法上の因果関係の判断で、それによると、事実としての因果経過があるかどうかを判断するだけではないということです。事実的な因果関係に加えて、法的に結果を帰責すべきかどうかを判断しなくてはなりません。結果は客観的構成要件要素ですので、このような因果関係の問題を客観的帰責の問題と呼ぶ場合もあります(いわゆる客観的帰属論。私はこの考え方を支持できませんが、多数説はそう考えています)。「行為者の主観で因果関係があったりなかったりするのはおかしい」などという人がいるのですが、結果無価値論の立場からでさえ、全然おかしくありません。なぜならば、刑法上の因果関係は帰責の関係ですから、行為者の主観によって帰責範囲が変わることは十分に考えられるからです。結果無価値論といえども、法益侵害の危険性を判断するために必要な限度で行為者の主観を考慮に入れます。したがいまして、事実的因果関係と法的因果関係を混同しないように注意してください

ということで、以上のことを念頭に置きつつ、事実関係を読んでいきましょう~

◆イメージトレーニング

高速道路侵入事件の事実関係は、以下の通りです。

(1) 被告人4名は,他の2名と共謀の上,被害者に対し,公園において,深夜約2時間10分にわたり,間断なく極めて激しい暴行を繰り返し,引き続き,マンション居室において,約45分間,断続的に同様の暴行を加えた。
(2) 被害者は,すきをみて,上記マンション居室から靴下履きのまま逃走したが,被告人らに対し極度の恐怖感を抱き,逃走を開始してから約10分後,被告人らによる追跡から逃れるため,上記マンションから約763mないし約810m離れた高速道路に進入し,疾走してきた自動車に衝突され,後続の自動車にれき過されて,死亡した。

(最決平成15年7月16日刑集57巻7号950頁)

これを読んだら、パッと事件の光景をイメージできるのが望ましいと思います(私はいまだにそこまでに至っておりませんが…)。それでは、ゆっくりやっていきましょう。

まず、被害者の視点に立ってみましょうか。本件の被害者は、加害者(正確に言えば、被告人ら)から計3時間近く暴行を受けています。3時間暴行を受け続けることを想像してください。イメージです。あなたが被害者だとして、相手は6人です。殴られたり蹴られたりするわけです。それが3時間くらい続きます。うわー、痛いですね…。

そして、隙を見てマンションの居室から靴下履きのまま逃走します。そりゃ、逃走しますよね。靴を履いている余裕はありません。で、深夜の道路800メートル10分くらいで移動しています。人間の歩行速度は毎分80メートルよりちょっと遅いくらいですので、小走りな感じだったと推測できます(第1審の指摘するように、必死に逃走したにしては時間がかかっていますが、靴を履かないとなかなか走りにくいことも事実です。実際にやってみましたが、足の裏がいたいです)。そして、800メートルという数字ですが、何でも構いませんが、身近な距離を参考にしてください。たとえば、東京ディズニーシー・ステーションから「ストームライダー」までくらいの距離です(全然身近じゃない…?)。あとは、霞が関弁護士会館から東京地裁までぐるりと外周したくらいが、だいたい800メートル弱です。

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距離測定:キョリ測(ベータ) -地図をクリックして距離を測定 消費カロリー計算も より引用・作成)

とにかく身近な距離なら構いません。大学までの道のりとか、普段利用している道路の長さとかで感覚をつかんでください。直線ならなおよいかもしれません。

さらに、被害者は高速道路に侵入します。最高裁決定からはわかりませんが、高速道路に入るまでには、けっこう障害があります。第1審によると、草木の生い茂る土手を登って壁を越えないといけないみたいです(下図。あくまでもイメージです)

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ここをあえて登ろうと思ったわけです。追っ手を撒くためのとっさの判断だったのでしょうか。検証調書からは、反対側に登れる箇所があるらしいです(小坂・前掲33頁参照)。ところが、侵入した高速道路で被害者は轢かれて死亡してしまいます。

今度は、加害者(被告人)側の視点に立ってみましょう。3時間近く仲間とともに被害者に暴行を加えます。マンションの一室です。被害者が逃げるとも思っていなかったかもしれません。ところが、被害者が逃げてしまいます。それに気が付いてあわてて追いかけますが、どこに行ったのかわからなかったので、捜索を打ち切ります。その後、まさか被害者が高速道路に入っていたなどとは思わなかったでしょう。

◆まとめ

このように、事実関係をイメージしながら、それに引き続いて決定文を読むことになります。具体的にイメージするほどわかると思いますが、「危険の現実化」と言えば解決する問題ではないですよね。最高裁は、本事案で因果関係を肯定しましたが、どのような事実を重視して、何のために因果関係を肯定したのかを考える必要があります。「誘発」という言葉を使ってもけっこうですが、どのような事実があれば「誘発」したことになるのか、なぜ「誘発」を考慮しないといけないのか、などを考えなくてはなりません(なお、この最高裁決定は「誘発」という表現は一切用いていません)。

結果を行為に帰責することで、いったい何が達成されるのかが問われなくてはなりませんし、そのために、どのような事実を評価すべきなのかも考えなくてはなりません。これを突き詰めると、違法論の激しい対立に至ることになります。違法論後編では、事前判断・事後判断も含めて考えたいと思いますが、これは因果関係の問題で特に対立が生じます。

加害者の視点に立ったとき、当該行為に対する危険性の認識があったといえるでしょうか? 当該行為に被害者が高速道路に侵入して死亡する危険性があることを理由に、行為者により強い禁止規範を向けることができるでしょうか? いい換えれば、後知恵でなく「ほら、高速道路に侵入して死亡したじゃないか。だからその行為をやるなと言ったんだ」と言えますか? 行為無価値論の立場からは、以上のようなことを考えなくてはなりません。また、結果無価値論に立てば、このように考えなくてよい理由を考えなくてはなりません。判例は、結果的加重犯について加重結果に対する過失を不要としていますから、因果関係の判断が、そのまま処罰範囲ということになります。責任段階で処罰範囲を絞ることは不可能に近いです。

みなさんは、どのように考えるでしょうか?

それでは~

 

▼因果関係論【前編】理論編

▼因果関係論【後編】判例

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