緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

「知識人」はいかにして破滅するか

こんにちは~

いつも本ブログを読んでいただきまして、ありがとうございます。

今日は、私の経験から得られた反省を踏まえまして、人生上、みなさんに気を付けてほしいことを書いてみたいと思います。このことを気にしていないと、おそらく「なぜ私は認められないんだろう」と思いながら日々を過ごすことになり、最悪の場合、そのまま人生を終えることになります。

「ゆるふわ」とはいえ、本ブログでは専門的なテーマを扱っています。それなので、このブログを読むような方々はおそらく、「頭がいい」とか「知識がある」と言われたことがある人たちではないかと思います。こういう人たちは、これまでの生活からおのずと一種のプライドのようなものが形成され、現在でもなお、他人からそう見られたい、そう思われたい、と思うようになります。あなたはそう思ったことはありませんか? 自分の本心と相談してください。ここはブログです。周りには誰もいませんから、正直に考えてみてください。答えが NO であれば、これ以上、この記事を読む必要はありません。

他人から「知性がある」と認められたいと思うことまでは極めて健全なのです。何も問題はありません。承認欲求は誰にでもあるものですし、これがなくてはいい仕事はできません。ですが、一歩誤ると知らず知らずのうちに、奈落の底への道を歩むことになります。

◆奈落の底へと続く道

奈落の底への第一歩が、「知性があると見られたい」という考え方から「知性があると見せたい」という考え方にすり替わることです。簡単に言えば、承認欲求が押さえきれなくなってしまい、目線が自分の外側から内側に向いてしまうことです。もっと端的に言えば、自分のことしか考えられなくなってしまうのです。

この目線の変化が、具体的にどういう行動として現れてくるのか。知性があると見せたい人の最もやりがちなことは、大衆に迎合しないことです。これが最もシンプルかつ最悪の方法です。このときの当人の心の中は「私は、ほかの人とは違うぞ!」、「ほかの人と違う考え方をする俺ってすごい!」といったかんじだと思われます。事実、ほかの人と異なる考え方をしていますから、本人の事実認識自体はそこまで誤っているわけではありません。

ですが、この考え方では永久に自分の欲求は満たされないでしょう。さらに言えば、欲求が満たされないどころか、孤独に死んでいくことになりかねません。なぜならば、他者からの承認とは真逆のことをしているからです。「私は、ほかの人とは違うぞ!」、「ほかの人とは違う考え方をする俺ってすごい!」と思っているのは、当の本人だけです。ですから、ほかの人から見れば「単なる思い上がり」以外のなにものでもないのです。

しかし、仮に当の本人が他人からそう言われたとしても、必ず反発するでしょう。本人は、他人とは異なる自分の考え方に「知性のプライド」を持ちはじめていますから、様々な理論武装をして反論してくるはずです。場合によっては、他人からの批判によって、ますます自分の考え方が正しいと思うようになります(これを確証バイアスと呼びます)。もっとも、本心としては「なんで俺の考え方が分からないんだ!」と思っているはずです。もちろん、その答えは「他人と異なる考え方をしているから」なのですが、本人がそう思うことは決してないのです。なぜならば、いまだに他人からの承認欲求を捨てきれないからです。

要するに、他者からの承認を得たい、「知性がある」と見られたい、と思うがために、他人と異なる考え方をしはじめたり、大衆迎合しなかったりするわけですが、このことが、かえって他者を遠ざけているのです。冷静に考えればわかりますが、そもそもの発想自体に矛盾があると言わざるを得ません。他人と異なる考え方をし、大衆迎合しない以上は、承認欲求など捨て去ればいいわけで、論理的には自分ひとりで勝手にやっていればいいのです。他人に絡む必要などないはずです。ところが、そもそも承認欲求から他者の考え方との差別化を図ったことがはじまりなので、こういう人に限って承認欲求が強く、自分の考え方を他人に示したがります。あなたの身の回りでも、そういう人がいるのではないですか? あなた自身はそういうことを思っていませんか?

◆ではどうすればいいのか

他人と異なる考え方で成功した人は多いです。あなたにも心当たりがあるのではないですか? だからこそ、他人と異なる考え方をしたいと思ったのではないですか? ですが、他人と異なる考え方で他人から認められるためには条件があります

本来的に、考え方の「差異」と「共有(承認)」とは真逆の発想です。ですから、このままでは、どう論理的に考えても両方を支持することはできません。しかし、一方をとれば孤独な知識人の思い上がりに至り、他方をとれば没個性的な凡人の大衆迎合となってしまいます。この二項対立から逃れるためには、どうすればよいのでしょうか?

もう一度、どこで道を踏み外したのかを振り返ってみましょう。奈落の底への第一歩は、「知性があると見られたい」という考え方から「知性があると見せたい」という考え方にすり替わることでした。つまり、目線が自分の外側から内側に向いてしまったことが問題なのです。打開策は、ここにあります。目線をもう一度、外側に向ければいいのです。

目線を外側に向けるとは、他人に対してどのように貢献していくのかを考えることです。あなたの承認欲求が満たされるためには、承認してくれる相手がいなければならないのです。具体的な他者のために考え方を差別化するのです。ですから、「大衆迎合しない」という建前に甘んじて自分の内側に引きこもらないでください。この際、自分に都合のよい「他者」を作り上げてはいけません。あくまでも具体的でリアルな他者を考える必要があります。もちろん、最終的にはこれは選択の問題ではあるのですが、人間に承認欲求がないということはほとんど考えられません。

本当に、このまま誰からも認められずに孤独に生きていくつもりですか? いつか誰かに認められるだろうと考えるのは楽観的です。普通に考えて、他者に貢献しない人が他者から認められることはありません。せいぜい、同じような境遇の人たちと集まって愚痴を言い合うだけの「承認」の関係ができる程度でしょう。その承認の内容は、あなたの考え方が社会に認められるという本来意図していたはずのこととはかけ離れて、「なんで多くの人には分からないんだろうね。一般市民ってダメだね」といったものになるでしょう。そして、このような愚痴の言い合いで、あなたの人生は終わることになります。

もう一度、言います。これは選択の問題です。ですが、私は、「孤独な知識人の道」をおすすめしません。まだ間に合います。今からでも遅くはありません。道は変えられます。以上のことは、具体的な事実関係こそ省略しましたが、私の経験談に基づいています。私は選択を変えました。

あなたが希望する人生を選択できることを、心から願っています。

それでは~

 

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