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ゆるふわ刑法ブログ

かぽーんと刑法を考えるブログです。司法試験の過去問解説とか、基本書の紹介とかやってます。たまにリアル社会のことも考えます。論の展開が粗いのと読みにくいフォントは仕様。

「論証パターン」の作り方

基本書について 判例集について (新)司法試験 刑法

こんにちは~

今回のテーマは「論証パターンの作り方」です。ええ、「論証パターン」です。

法学は暗記の学問(というのがあるのか?)ではありませんが、「試験においては」暗記必須です。その場で条文を読んでイチから自分の頭で考えて解答すべき……なわけないじゃないですか。裁判官や研究者が多大な時間をつぎ込んで得られた法解釈論について、学生が、たかだか1~2時間程度で同じ思考を辿れるわけがありません。現役実務家でも研究者でも無理です。試験等で問うている「思考」は、少なくとも判例の理解と暗記の上に成立しています。

というわけで、何をどう暗記してどう書くのか、というのが本記事のテーマです。

◆「論証パターン」とは

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論証パターン(あるいは「論証ブロック」等と呼ばれる)とは、旧司法試験時代に司法試験予備校(というよりたぶん伊藤先生)が発明したとされる画期的な試験対策方法のひとつです。あらかじめ論じる内容を覚えておき、それを答案に再現することで答案の作成効率を向上させ、より本質的な問題点の思考時間を確保することを企図しています。

論証パターン元祖の「シケタイ」では、以下のように説明されています。

この手法はもともとは本試験会場における答案作成時間をセーブするためのものであり、はじめに答案ありきということを忘れてはならない。

伊藤真民法総則』(弘文堂、第3版、2008年)Ⅷ頁)

誤解が多いですが、少なくとも当初は、あくまでも「本質的な問題点の思考時間の確保」が目的とされていました。つまり、「論証パターン」は機械的な解答方法とはおよそ無縁だったはずなのです。

ところが、そのうち「論点ごとの解答を暗記すること」が目的になってしまい、「この論点にはこの解答」といったかんじで対処する用途に流用されはじめます。そうすると、論証パターン使用者にとって、必然的にいかに論点を網羅するかが重要になり、俗にこの流れが「論点主義」と呼ばれるようになって(批判されて)いくわけです。

「論点主義」がなぜ批判されるのかと言えば、①具体的な事実関係とは無関係の場違いな論証が書かれるから、②争点の比重に関係なく決まった分量の論証が書かれるから、③そもそも覚える内容が間違っているから、④覚えた論証がほかの論証と整合しないから、⑤論証とあてはめが対応していないから、などでしょうか。これらの問題点は、比喩的に「論証のはりつけ」とか「基本書の劣化コピペ」とか呼ばれたりしています。採点者の立場からすると、その論述部分が「浮いて見える」ということなのでしょう。

たしかに、事案ごとに論点やそのウェイトが異なるにもかかわらず、すべてまったく同じ論証で対処するのは誤りであり、論証パターン本来の目的とも整合しません。ですが、現行試験制度になっても、相変わらず絶対に覚えて書かなければならないことは存在します。この記事では、この部分を「論証パターン」とふわっと再定義しておきます。なお、上記①~⑤の問題点への対処に関しては、本記事の主題から外れるのでここで論じません。ここで強調したいことは、ある程度の暗記は絶対的に必要であり、論証パターン批判とは一応分離して考えてほしいという点です。

◆論証作成方針

上記問題点とは別に、現時点における予備校論証の欠点は、①無駄に長い、②議論が古い、③最近の判例に乗っかっていないの3点です。試験的にどれも好ましくありません。

たとえば刑法では、いわゆる不真正不作為犯や共謀共同正犯が罪刑法定主義に反するかどうかなどの問題は、今日では、もはや答案で論じる必要はないです。また、少なくとも傷害罪において、判例は承継的共同正犯を否定する立場を表明しましたし、自招侵害や量的過剰の判例もどんどん出てきています。因果関係論も、判例が「危険の現実化」を基準とすることを踏まえなくてはなりません。

旧司法試験時代のものを使いまわすから、こういった問題点が出てくるのです。古い学説に新しい判例・学説を接ぎ木しているため、もうめちゃくちゃです。今日では論じる必要がないこともこのブログ並みに長々と書いてあるので、現行司法試験ではあまり使えません。

ということで、多かれ少なかれ自分で論証を作る必要に迫られます。

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そこで、どのような論証を作るかですが、上位答案の「分量を」参考にするのがよいかと思います。実際の上位答案を見ていただければわかるかと思いますが、現行司法試験では「おそろしくコンパクトな論証」にする必要があります(上の図で示した程度のイメージです)。制度的に法解釈論軽視ではないかという別の問題はありますが、今はそういう試験になってしまっていますから、それを基準に試験対策を考えていくしかありません。

大きな方針としては、とにかくコンパクトに書け

ということになります(同趣旨の指摘として、島田聡一郎・小林憲太郎『事例から刑法を考える』(有斐閣、第3版、2014年)7頁以下も参照)

◆論証作成手順

問題は、どこをどうコンパクトにするかです。

一般的な論証作成の流れは、「判例の読み方」で申し上げた通りです。判例の読み方がそのまま論証作成に直結します。が、どこを削るのかはやはり悩ましいところです。論証作成手順がどうというよりも、ここでかなり悩みます。

上にあげた図のように、規範部分()は、直ちに「あてはめ」に影響してくるので安易に削れません。これに対して、理由付け部分()は比較的削りやすいです。そうすると、「論証のコンパクト化」の問題は、理由付け部分をいかにコンパクトに書くかという問題になり、必要最小限度の理由付けとは何かという問題になります。

他説の問題点及び批判を根拠とするいわゆる消極的理由付けは、ほかに条文の趣旨・目的などの自説の積極的理由付けがある限り、どんどん削れます。もっとも、条文の文言とストレートに関わる部分は削れませんし(例として、自己所有物の窃盗に関する242条の解釈等)、スジとして明らかにおかしいけれどそうすることがやむをえない部分の弁解(我々の業界では上品に「レトリック」とか正直に「ごまかし」と呼びます。このブログでは上品に書いてます)も削れません(例として、クロロホルム事件における「一連の実行行為」等)。それらの諸点はひとこと触れる必要がありますので、うっかり削りすぎないように注意してください。

そもそも「理由」というのは、「~である。なぜならば、~である。なぜならば、~である。なぜならば~」と半永久的に続けられますから、考えはじめると泥沼にはまります(泥沼にはまりたい方はこちら→「結果無価値論VS行為無価値論」参照。要するに、違法論は数学でいう「公理」をめぐる争いであり、ほとんど宗教戦争です)。そうすると、必要最小限の理由付けにするためには必然的に「直近」の理由付けに限定するということになります。これは、それ以前の原理レベルの理由付けを考えなくてよいということではなく、あくまでも「試験対策としてどこまで暗記するか」という話です。念を押しておきますが、「直近」という言葉は一種の比喩というか誇張であって、論理が多層構造になっていたとしても必要最小限の理由付けであればそれを削らないことは当然の前提ですし、厳密に言えば、事案との関係で何が「必要最小限」なのかが変わります。正直、このあたりはかなり感覚的で曖昧です…

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わざわざ「直近の理由付け」という表現を用いるのは、抽象的な原理「だけを」引っ張ってきてはいけないという点を強調する趣旨です。たとえば、刑法の場合には、「自由保障機能」だとか「法益保護機能」だとか、どの見解からもおよそ否定できないような不明瞭で抽象的な用語を直接の理由づけに援用する方がいるのですが、こういう言葉が出てきた時点で、採点では事実上、自動的にはじかれます(と考えたほうがいいです)。この点に関しては、刑事訴訟法の領域ではありますが、古江頼隆「設問を解く前に」『事例演習刑事訴訟法』(有斐閣、第2版、2015年)1-10頁が、たいへん参考になります。ただし、古江先生は「『制度趣旨』は断じて規範ではない」(同書4頁)と書かれていますが、刑法総論の世界では、制度趣旨(特に処罰根拠論系)がそのまま規範ないし判断基準になることは頻繁に起こりますので、その点はご留意ください。

◆具体例

※具体例で簡単に考えてみたかったのですが、書き足しているうちにどんどん難しくなってしまったので、読める人だけどうぞ…

具体例で考えますと、たとえば、おなじみの因果関係論の「危険の現実化」の話をしましょうか。

規範」()は、「実行行為の危険性が結果へと現実化した場合には、因果関係が認められる」ですね。これは最優先暗記事項です。因果関係論は有名すぎるので、普通はみんな覚えてます。「考慮要素」に関しては、前田三考慮要素を引っ張ってきても、そうでなくても、当面は構いません。

【補足1】採点上の「考慮要素」の扱い 判例または通説が明示的に言及していない限り、学説で指摘されている考慮要素を規範部分に書いても、平等な学説の取扱いの都合上、得点に差が出ません(司法試験でどうかはわかりませんし、知っていても書けません。上位答案を見る限りでは、書いている人はほとんど見かけません)。ただし、考慮要素を押さえていると事実を拾って評価し損ねることが激減するので、結果的に「あてはめ」の段階では差が付くことがあるのではないかと思います。

そこで「理由付け」()ですが、多数説は因果関係論を「主に」応報的処罰の問題だと考えているようであり、構成要件該当行為に対する結果不法ないし結果無価値の帰属の問題(客観的帰責ないし客観的帰属の問題)だと構成するのが一般的です。これをそのまま理由付けに採用するのが簡明(そしてさっそく古江先生の上記批判が直撃)ですが、これだけだと具体例として面白くないので、この記事では、もう少し理論的な観点まで踏み込んで考えてみます(試験的には、これ以降は読まなくていいです)

【補足2】客観的帰責と判例 結果無価値論等は、応報=帰責=客観的帰責(違法性)+主観的帰責(責任)というシンプルな見解を採用します。この立場からは、因果関係の範囲を広く認める反面、責任段階の過失、とりわけ具体的予見可能性の要件によって厳格に処罰範囲を絞るという戦略を採用することになります。もっとも、判例は、具体的予見可能性要件を採用しながらそれを緩やかに理解し、結果的加重犯の加重結果に対する過失を不要としていますから、多数説の論理で因果関係論を論じれば、判例の立場における処罰範囲に歯止めがなくなってしまうとも思われるため、少々疑問です。一方で、ドイツでは、行為無価値論を採用しながら客観的帰属論+類型論を採用するのは、独自の歴史的経緯に加えて、手続法原理に職権主義+法定証拠主義を採用するからです。日本の刑事訴訟法が採用する当事者主義+自由心証主義という前提とかなり異なることに留意してください。とはいえ、理由付けはともかくとしても、以下で述べる見解も結局のところ「危険の現実化」という規範は同じなのではないかとの疑問もありますが、規範の適用の仕方(規範の射程)に差が出てくる余地があるように思います。

応報だけではなく、一般予防の観点を踏まえて因果関係論を考えてみたいと思います。

上記規範の理由付けに一般予防論「だけ」を持ち出す答案があったりするのですが、たとえば、安易に論証を削って「一般予防を重視すべきであるから、実行行為の危険が現実化した場合に因果関係が認められる」と書くのは不適切です。

ここで「一般予防」の観点を持ち出すことがおかしいと言いたいのではありません。それを念頭に置きつつ、論理に飛躍のない最小限の記述にしてほしいのです。

上の例で念頭に置かれているであろう学説の本来の論理は、「刑法の目的は法益侵害又はその危険の惹起行為に対する一般予防であるから、その目的を達成するために設定された規範、つまり、法益の保護を目的とする行為規範の違反を違法評価の対象に据えるべきであり、刑法規範によって禁止された行為の実質としての危険性が結果の発生によって確証されたとき、すなわち、行為の危険性が結果へと現実化したときには、結果の発生を理由として当該行為により重い規範違反の違法評価を加えることができると考えられるのであるから、このような場合には因果関係が認められる」という非常に複雑で長ったらしいものです。

これを簡単に図式的に理解すると、

一般予防論 → 行為無価値論 → 行為の危険の確証 → 危険の現実化 → 因果関係あり

となります。

そうすると、論証として「」と想定すると、

×:一般予防論危険の現実化因果関係あり

〇:行為の危険の確証危険の現実化因果関係あり

となるのです。

上のような見解を答案用に短くする場合には、出発点となる一般予防論などの「刑法の目的≒刑罰論」や、「行為無価値論」などの抽象的理論ではなく、規範との関係で「直近の」理由付けを採用することになるわけです。したがって、「因果関係とは結果の発生を理由として行為により重い違法評価を加えることができるほどの密接な関係をいうのであるから、行為の危険性が結果へと現実化した場合には因果関係が認められる」などと書くということになります(以上の因果関係論の内容面に関しては、井田良・丸山雅夫『ケーススタディ刑法』(日本評論社、第4版、2015年)97頁以下、井田良『刑法総論の理論構造』(成文堂、2008年)54頁以下を参照)

【補足3】行為者の認識した危険の現実化? この立場は、しばしば「行為者の認識した危険の現実化」だと理解されますが、正しくは「行為者の認識『すべき』危険の現実化」のはずです。これは、行為規範の「設定」の標準が一般人だからであって、行為規範の「違反」の標準が行為者であることとは異なる問題だからです。このあたりは、発生結果から行為無価値を再帰的に構成すること(山口先生の批判的表現を借りれば「行為無価値の事後的なラベリング」)による将来の犯罪の規範的予防という論理を追えないと理解が難しいです。なお、このように複雑に考えなくても、行為無価値論で一貫させることにこだわらなければ、多数説に従って「因果関係は客観的帰責の問題であるから、実行行為の危険性が結果へと現実化した場合に因果関係が認められる」と書くほうが簡単でしょう。

このようにみると、抽象的原理は、基本的に思考の次元の話であって、実際に答案上に表現することはほとんどないことがわかります(というところを安易に捉えて、違法論や刑罰論の学習は不要だなどと言い出す人たちがいるのは本当に残念です)

それではまた~

 

▼論証以前の要件整理の仕方についてはこちら

takenokorsi.hatenablog.com

 

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