緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

「ドイツ憲法学」ってなんだ(前編)

あらかじめ予告しておきますが、次々回は「比例原則とパレート最適」です。

「比例原則」という概念を説明するにあたって、最近のドイツ流の三段階審査論に言及してみたところ、どんどん文章量が増えてきたので、むしろこの部分を独立させておいたほうが読みやすいかなぁといういい加減な考慮に基づき、今回のテーマは「ドイツ憲法学」です。日本の憲法を理解するために、ドイツ憲法について考えてみましょう。

予定としては、前編が権利概念について、後編が三段階審査論の考え方についてです。

※本ブログは、一部の記事を除いて、主に法学部生や法科大学院生を想定読者層とした法の学習をテーマとしています。それなので、記事では難解なところやマイナーなところを大雑把に説明して、その後に自分で判例集や体系書等で正確な知識を補完してもらうことを前提にしています。現実の問題について、具体的な解決指針を提供するものではありません。また、政治的・歴史学的な主張を含むものではありません。誤記があればスルーしてあげてください。

◆「ドイツ憲法」はない

冒頭からいきなりウソをつきました。現在のドイツに憲法はありません。

「ドイツ憲法学」などといった言葉から非常に誤解が多いのですが、ドイツに「憲法」なんてないのです。ドイツにあるのは、1949年5月23日のドイツ連邦共和国基本法、通称「ボン基本法」という「法律 Gesetz」です。これが疑似憲法的役割を担っているにすぎません。

いやいや、ドイツでは1919年に既に先進的な「ワイマール憲法」があったじゃないか、と思われる方もいるかもしれませんが、国会議事堂放火事件を契機とした1933年3月23日の全権委任法で事実上の効力が失われました。現在でも、ワイマール憲法の法的な効果がどうなったのかよくわかっておりませんので、具体的に何年の何月何日にワイマール憲法が廃止されたと指摘することはできません。

その後、第二次世界大戦を経てドイツは東西に分裂し、再び統一ドイツが実現するまで新憲法の制定が留保されることになりました。このときに、西ドイツの首都であるボンという都市で起草されたのが、上述の「ボン基本法」という暫定的基本秩序を定めた疑似憲法的な法律だったのです。その後、1990年のベルリンの壁の崩壊を契機として、ようやくドイツが統一されるのですが、どちらかというと東ドイツが西ドイツに吸収される形になったので、便宜上、ボン基本法が存続することになったわけです。法的には、ボン基本法の適用領域がドイツ民主共和国に属していた領域にまで拡大したのだと説明されます(村上・後掲33頁参照)

◆「基本権」概念

少しずつ日本の話に入っていきましょう。

基本法 Grundgesetz」に記載された権利を「基本権 Grundrechte」ドイツ連邦共和国基本法第1章。以下、「GG」と略します。)と呼びます。日本の憲法学説で「基本権」という用語が使われることがありますが、本来的には、「基本的人権 fundamental human rights」の略称が「基本権」であるわけではありません(なお、人権と基本権との関係について、芦部・後掲83頁、佐藤・後掲122頁、長谷部・後掲94頁以下、橋本基弘「人権の基礎理論」工藤・後掲60頁も参照。学説において用語法が混乱していると言わざるを得ないように思われます)。したがって、厳密に考えた場合には、この「基本権」は、日本では「憲法典に記載された権利」と実質的に把握されることになり、これを「憲法上の権利」と呼ぶことになります。また、この「憲法上の権利」概念を軸とした憲法理論を憲法上の権利」論と呼びます。

そうすると、この「憲法上の権利」論は、「書かれたものが権利になる」という実証主義 legal positivism 的な発想が非常に強いわけです(駒村・後掲71頁以下も参照)。法実証主義は、前実定憲法的な自然法思想 natural law と対になる用語です。小山先生の著書のタイトルが、『「憲法上の権利」の作法』であって『「人権」の作法』でないのは、このような理由があります。学生目線で多少曲解すれば、同書は、「人権パターン」ならぬ「憲法上の権利パターン」といったところでしょうか。

このように権利を実定的に考えてみると、憲法を改正すれば権利内容を変えられることになるはずです。これを、いわゆる「新しい人権」を追加できるとポジティブに理解することもできますが、権利保障が改正によって後退する可能性があるとネガティブに理解することもできます。ボン基本法も、後者の点を懸念して、「人間の尊厳」や「憲法的人権 Menschenrechte」等に明文で言及した上でこれに抵触する改正を排斥し(GG1条、79条3項)、また、「基本権の本質的内容」に触れる制限を排除しています(GG19条)。他方、日本国憲法には直接的にはこれらにあたる規定が置かれていませんので憲法96条等参照)、「憲法上の権利」論をそのまま採用するというわけにはいかないのではないかという根本的な疑問がないわけではありません(ただし、憲法11条や97条などにそれらを読み込むことも不可能ではありません。とりわけ、憲法11条は「将来の国民」に保障されることを明示的に規定しています)

もっとも、以上のような「憲法上の権利」論が、日本国憲法と整合しないのかというと、部分的にはむしろアメリカ憲法学の考え方よりも整合的であると言えます。

芦部信喜佐藤幸治等の伝統的通説の立場は、アメリカ憲法学を大幅に取り入れたものでした(伝統的通説の形成経緯については、「民事裁判と刑事裁判の構造的な違い」も参照)。いくつかの最高裁判例に付されている伊藤補足意見(内容的には、たとえば、パブリック・フォーラム論等)も、アメリカ法の流れを日本に取り入れる余地のあることを示唆したものでした。しかし、権利論について言えば、アメリカ憲法学の考え方と整合性がとれない部分が存在するのです。それが「包括的基本権」と「適正手続」です。

アメリカではもともと合衆国憲法の第1修正から第10修正(現在ではさらに修正されています)が「権利章典 the bill of rights」であり、日本では「人権カタログ」と比喩的に表現されてきたものですが(芦部・後掲75頁等)、合衆国憲法の場合には経済的自由などが書かれていません。これは、アメリカでは経済活動を規制する権限が連邦議会に与えられていないこと(Art.1 制限政体 limited government. ゆえに、連邦レベルで経済活動を規制する手段として州際通商条項 interstate commerce clause Art.1 Sec.8 を極めて広範囲に拡張解釈するという戦略をとるわけです)が理由のひとつでしょうが、そこで、アメリカでは 第5修正及び第14修正の適正手続条項 substantive due process clause をいわば「一般条項」として、ここから経済的自由等を引っ張り出します(樋口・後掲234頁以下、270頁以下参照)。日本では憲法13条が包括的基本権を規定していますが、アメリカでは日本の憲法31条にあたる条文がこの機能を果たしているのです。

もっとも、アメリカでは、適正手続条項が「包括的基本権を規定している」のかというと、ニュアンスとしてはそうではないでしょう。日本では、特に行政法学を中心に、適正手続を根拠とした権利を「手続的権利」と呼んでいたりもしていますが、アメリカ憲法学は、適正手続上の利益をそのような実体的・手続的な「固定化された権利」あるいは「反射的利益の権利化」として把握しているわけではないと思われます。イメージ的には、「手続だけが法定されていて、権利についてはあえて空白にしておいて流動的な判例に委ねている」のです(手続法中心主義)。アメリカの権利章典も「判例法の結晶化」という意味にすぎません。そうすると、このような点では、GG2条1項の思考方法である「受け皿としての基本権 Auffanggrundrecht」を援用するほうが、日本の憲法13条を基本とした解釈論との整合性があると考えられるのです(松原光宏「包括的基本権(ドイツ)」君塚・後掲204頁も参照)

こうして、日本の憲法理論は、原理的にアメリカにもドイツにも全面的に傾斜できないので、「アメリカとドイツの歩み寄り」という謎の形容表現で理論的な不徹底さをごまかしつつ、レトリックを駆使して表面的なところで解釈を整合させる道を突き進んでいるわけです。このような状況を踏まえると、「判例はカミ、学説はゴミ」という安念先生作の命題安念潤司判例で書いてもいいんですか?」中央ロー6(2)(2009年)85頁以下参照)は、現状、実務としても試験戦略としても正しいように思われます。

◆参考文献

takenokorsi.hatenablog.com

 

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