緋色の7年間

制約を原動力に。法律事務所の弁護士と大手企業の法務担当者が、時に制約と闘い、時に制約を迂回していきます。

イマジナリーな領域への権利に関する覚書

こんにちは~

本日のテーマは「イマジナリーな領域への権利」です。

…え? そんな権利知らないって??

これはですね、新たに発見された「憲法上の権利」なのです!(大嘘)

◆わかるようでわからない「脱構築

ジョークはさておき、この概念を厳密に説明しようとすると私の力じゃどうにもならないので、アバウトに説明します。ほとんど曲解ですが、使えればいいんです。このブログに厳密なことを求める人はいないと思いますが、私たちはそんなかんじで「ゆるふわ」でいいのです(ブログ名回収)。

そもそも、「イマジナリーな領域への権利」を言い出した人はコーネルさんという方なのですが、この方の属している派閥といいますか、さらにそのボスみたいな人がデリダといって、これまたよくわからない難解なことをおっしゃられる方がいまして、「デリダ系」だとか「脱構築派」だとか呼ばれています。で、この流れを理解するためには、脱すべき構築部分というか「構造」について理解する必要がありまして、この「構造」を理解するためには、さらにその構造の基本となる「記号」やら「言語」やらを理解しないといけないというめんどくさいプロセスを辿らないといけないわけです。

で、一応、このブログでは「記号」や「構造」の部分はさらっと説明しています(「刑法解釈と他者関係性」参照)。そんなに深く考えずに、下図程度の理解でけっこうです。

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ものすごーーーーく簡単にいえば、線が入っているのが「構造」で、この「構造」を今こうやって俯瞰して眺めること自体が「脱構築」です。

だからなんなんだという話ですが、私たちは常日頃から社会や共同体などで共有されている価値観、ルール、慣習、法などの「規範」に意識的又は無意識的に従って生活しているということです。というか、ほとんど無意識ですかね。「~はこうあるべき」みたいなことを無意識に思っているのです。「固定観念」や「偏見」とも言います。

このことについて、フランスの精神科医(と言い切ってよいのか微妙ですが)のLさんは、「無意識は言語のように構造化されている」といいます。要するに、言語という外部的なものが自分のこころの中にあるのです。もう少し噛み砕いて言えば、私たちは「~はこうあるべき」みたいなことを思い込んでいるのですが、「~はこうあるべき」と心の中で言っているのは、実はその人自身ではなく「他者」なのです。チョムスキー生成文法という考え方はひとまず置いておくとして、私たちは、生まれた瞬間から言葉を話すことはできません。言葉は誰か自分以外の別の人から与えられたものなのです。私たちが話す言葉は、他者の言葉の組み合わせにすぎないのです。つまるところ、我々の思考様式は「他者」に支配されているわけです。無意識は「他者の語らい」なのです。たまにこれが悪化すると「幻聴」になるとかならないとか、「自生体験」になるとかならないとか。

そういうわけで、「脱構築」は、このような無意識に埋没した規範を顕在化させ、その全体を把握しようとする考え方なのです(ということにしておきます)。この世界はAだと思っていたら、実はBというパラレルワールドが同時に存在していた、というイメージでもけっこうです。

◆「イマジナリーな領域への権利」の具体的事案への適用

たぶんここまでの説明でもわけがわからない人はいるのだろうと思います。心の内側には外側が詰まっているというパラドキシカルな立体的論理を最初から理解できる人がいたら驚きです。これは、専門的には「外密」といいますが、メビウスの輪みたいなかんじですかね。

それで、「イマジナリーな領域」というのは、正直よく分からないのですが、上図でいえば色の付いたほわーっとした部分です。想像の部分というかイメージの部分のことです。そうすると、「イマジナリーな領域への権利」というのは、この色の付いたほわーっとした部分を自らの意思によって選択するのだ!という考え方です。権利のためのメタ権利という表現で説明されたりもします。たとえば、「女性はピンクを好む」という共同体的価値観というか固定観念があったとして、女性の方が「いや私は青を選ぶんだ! 邪魔をするな!」というかんじでこの理屈を援用します。これはフェミニズムの例ですが、別にフェミニズムでなくても成立する一般的な論理です。フェミニズムの例が多いのは、これを言い出したコーネルさんがフェミニストだからというか「イマジナリーな領域への権利」自体がもともとフェミニズムを主張する理論だからです。

これに対して、「イマジナリーな領域への権利」という構成の原理的な欠陥は、①否定すべき共同体的価値観を選択肢に取り入れるという矛盾、つまり、「どの共同体的価値観に縛られるかは自分で決める」という論理を大勢の人たちが使うと選択肢となる共同体的価値観自体が消失するという矛盾、②共同体的価値観に縛られないで意思決定をする際にまさに共同体的価値観に縛られるという矛盾の2つでしょうか。先ほどのフェミニズムの例で言えば、①ピンクじゃなくて青がいいと思って青をプッシュする共同体を選択しようとしても、同時に青を肯定する共同体の人たちは別の色を選択することがありうるため、結局のところ共同体自体が崩壊して理論の前提が成り立たないのではないか、②ピンクじゃなくて青がいいと思ったのはまさにピンクを無理やりプッシュする共同体の中で育ったからであって、青を選択したのはピンクをプッシュされたことによる反射的効果である、というかんじですかね。言語の恣意性の曲解ともとれます。

そして、こういった議論は、憲法の平等原則におけるアファーマティヴ・アクションで特に問題となって……ないかもしれませんが、これから問題となるかもしれません。線引きをしても線引きをしなくても原理的にはどうとでも批判ができるので、法律家的には、具体的な事実こそ決定打であるということを覚えておけばOKでしょう。抽象的な理屈に終始していても説得力に欠けてしまいます。

それでは~

 

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